留学中なのに、英語が話せなくて怯える人へ

生き抜くメンタル
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文章を書いている私にとって、圧倒的矛盾発言。

英語で喋るのが怖い

 英語で少し話せるようになってきてから、会話中に「アンタの言葉には用なんてない」と強く思うようになった。

 だから、「英語で上手く言葉が出なかったり間違えたりするのが怖い、話すのが恥ずかしい」と思ってしまう人は、特にこの先を読み進めてみて欲しいと思う。

言葉を探すという感覚

 私自身は日本語を母国語とする話者だから、物事を考える時の大抵は、日本語で考えている、という錯覚を起こす。その時に本当に頭の中で起こっていることは、頭の中の考えを日本語にして、自分自身が認識できるものにするというプロセスだ。


 このプロセスは日本語で話す時には全く意識しなかったのだが、英語だとボキャブラリーが少なすぎて、どうしても言葉を探すという「頭の中の概念を言語化するプロセス」を意識するようになった。

 これは、『日本語→英語』という翻訳の感覚とは少し違って、自分の考えを表現するのに丁度良い単語を、少ない英語のボキャブラリーの中から選んでいる感覚だ。つまり、『概念→言語』。でも、これって日本語の時でも同じで、無意識のうちに頭の中の概念を言語化することで、自分と聞き手が認識できるものにしている。

コミュニケーションの価値

 この過程を意識できるようになってから、言葉なんて全く用がないもので、「用があるのは、そのアンタの頭の中身なんだよ」と思うようになった。何故こんなチンピラの様な言い回しになってしまうのかサッパリ分からないが、正味そんな感じだ。

 だから、ちょっとした言語の下手さなんかを気にするのはお門違いで、自分の脳内を相手の脳内の思考に一時的に近づけることができれば、適切なコミュニケーションなんじゃないかと思える。これは逆に言うと、母国語でも適切なコミュニケーションを行えていない場合が、往々にしてあるということだ。

抽象と具体の行き来

 その時、前に読んだ本の中で森博嗣が、「言語化は抽象化である」と言っていたことを思い出した。

 頭の中の複雑で具体的な概念を、言語という万人が共有できる手段で抽象化することで、他の人にも認識可能なものになる。


 これが、母国語でもコミュニケーションの齟齬が起こってしまう理由なのだが、そもそもこの表現が抽象的過ぎて、アナタの頭の中で既に、 森博嗣とのコミュニケーションの齟齬が起こってしまっているはずだ。


 つまりコミュニケーションの齟齬が生まれる理由は、簡単にするとこうだ。

 自分が言語化によって『具体→抽象』にした頭の中身が、相手によって『抽象→具体』のプロセスが踏まれる時に、自分と同じ具体として相手が認識するとは限らない、ということだ。これは、憲法に解釈改憲が存在することと同じだ。

「イヤ、全然簡単になってないやん」という方のために、もっと簡単にすると、『圧縮されたテキストファイルをダウンロードして開封すると、文字化けを起こしている』こともあるということだ。

 複雑な思考を言語化して圧縮ファイルとして相手に渡すと、その言語が相手によって思考としてオープンされる時に、結構な確率で、化けている。

 
 この状況では、相手の頭と自分の頭が同じ状態にはなり得ない、つまり『コミュニケーションの齟齬』が確実に起こっている。

 こういうのは私自身、研究室の准教授と研究の小難しい話をしている時に強く意識することだ。優秀な研究者ほど、『適切なコミュニケーションの重要性』を知っているからこそ、言葉を丁寧に扱い、誤解の生まれにくい言葉選びをすると思う。だから研究の話っていうのは、非常に具体的になり易く、傍から見るともの凄く近寄り難いものになる。つまり、森博嗣の言葉を『解釈改憲』で説明すると分かりやすくなるように、できる限り誤解のない表現にするには、できる限り具体的な言葉で伝えるしかないからだ。


 だから私も、全く自分の研究分野を知らない人と話す時は、この具体と抽象の丁度良いところを探しているような気がする。

用があるのは頭の中身

 英語のコミュニケーションに慣れ始めてから、日本語でもかなり注意して聞くようになった。自分の頭をできるだけ、相手の頭に近づけたいと思うからだ。

 そのくらいじゃないとコミュニケーションには、大した意味なんてないとすら思う。言葉だけを耳にして分かった気持ちになっているだけじゃ、足りない。




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