「優秀な社員が欲しい」ってどういう意味ですか?

悩める仔羊系就活生
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今回は、ちょっとマジメにいきます。

優秀ってなんだと思います?

「どこにでも内定する優秀な学生」
「大手企業の優秀なビジネスマン」
「何でもソツなくこなす優秀な母親」

 こういう文脈での『優秀』って一体全体何やねん!というのが今回の主旨です。


と、ここまで書いて、
「優秀であろうとすることが、人間の生き方として優秀であるのかどうか」
というアブない疑問が脳内に浮上しました。

 しかし、こんなことを考えていると、思想が即座にブラックホール化するので、この危険思想は一旦全力で無視した上で『優秀とは』について語っていきます。

常識にどう向き合うか

 今回は堂々と引用から入ります。『優秀』の基準の2つが、とても面白い例で取り挙げられているのが、コチラの記事です。

養老孟司×池谷裕二 定義=「生きている」
同じ東京大学で解剖学と薬学を追究しながら、それぞれ「脳」を研究するうちに、ある思いを拭いきれなくなった養老孟司さんと池谷裕二さん。ふたりがとことん話す全14回。

中学生が引っかかるのは、「3a – a」が「3」じゃなぜいけないんだ、ということなんですよ。説得できます?「3a」から「a」を引けば、「3」じゃないですか。「3a」から「a」を取ったんですから。

習ったのは「3a – a = 2a」ですよね?

それが「感覚」と「意識」の食い違いです。意識は「イコール」といっていても、感覚は「違う」といってるんですよ。それは、ずーーっと、一生つきまとうんです。


 ここでは、学理について『素直に適応する力』と『疑う力』の存在が綺麗に説明されています。

 ナニ言っているかちょっと理解し難いかもしれませんが、これが今回のお話です。

懐かしのチャート式

「学理の捉え方」を考えた時に、真っ先に浮上したのが、例の高校数学の『チャート式』です。大学受験をした人の大半が向き合ったであろう、アノ本です。心あたり、あります?


これです。


 今になって考えると、このチャート式とかいう青くて分厚くて視界に入るだけで瞬く間に人類をウンザリさせる本は、非常に画期的だったな、と思います。数学における論理的な『ナゼ』を問う過程のイッサイガッサイが排除されていて、解き方の攻略、つまり『公式暗記』だけに特化した参考書でした。学生は「この形式の問題は、この正攻法で解く」という適用すべきハウツーだけを暗記すれば良かったんです。


 なぜ、こんな本が優秀な高校生の間でまかり通ってしまっているかと言うと、数学のようなハナからどこで役に立つのかもよく分からないようなキチガイじみた作業に、いちいち論理的なナゼを追求してたら「やってられねぇ」からです。

『お受験戦争』は知識や解き方という大量の武器を装備した上で、満を持して立ち向かわなければならない一世一代の大イベントです。そんな時に、一つの武器の装備に「ナゼ、これを持たねばならぬのか」などと悠長に考察できる程ヒマじゃありません。もっと言えば、「この武器は、いかにして作られたのか」なんて究極にどうでも良くて、そんなことをしている間に片っ端から武器を集めるキム・ジョンウンだかナンダカに一瞬で追い抜かれます。


 だからもう、理屈を排除して、暗記暗記の最短ルートでゴールを目指すしかなかったんです。そして、「この際ゴールまでの手段は問わない」ということで神格化されたのが、『チャート式』でした。

今になって

 この『チャート式』から分かるように、お受験戦争での『優秀』さっていうのは、ツベコベ言わずにマニュアル通りにやれるかどうかだったんですね。


 そして実際に現実世界でも、ツベコベ言わずにマニュアル通りに動いて出来ることを増やせるヤツの方が、圧倒的に成長速度が速いから面白いです。

 いつまでも理屈をこねくり回して、やる意味だの好きだの嫌いだのを検討して一向に物事が進まないヤツと、「こういうものだ」と割り切って前に進もうとするヤツとでは、1ヶ月もすれば驚く程の差ができています。


 でも、一方で、「3a – a は 3 とも考えられないか」と疑う発想は必要だと思います。


 ワタクシが研究に手をかけ始めた今になって振り返ると、高校の時に頑張った証である大量のポストイットが貼ってある『チャート式』は、ゴミにしか見えなくなりました。「考えるのが面倒だからgoogleパイセンに聞きに行く」という過程を脳内に移植するだけの、何の意味も無い作業だったと思います。

 言葉を選ばずに大胆に申し上げると、『チャート式』は生徒を歩く解法事例集に仕立て上げることに特化した、真面目な学生をおちょくってるかのような本でした。


 ナゼこう思うかと言うと、大学生以上では、自分なりの解釈を与えて進むことが圧倒的に重要だからです。

学校教育での優秀と、それから


先程の記事からのもう一つの引用です。

深く考えずにやる力を養うのが学校教育


 ここまで割り切って言って頂けると、かえって清々しいです。教育機関は中途半端な優秀層を踊らせるのが、ホントに達者だったんだな、と思います。そして、これが『優秀』なんだとすると、なんて理不尽で、陳腐で、シンプルな『優秀』を要求する世界なんだ、とも思います。


 でも大学生以上になればもう、いくらでも『ナゼ』を疑う時間が用意されています。常識を疑って考える力を身につけないと、いつまで経ってもヤルだけのフィールドで踊らされることになります。


深く考えずにとにかくやること」と「立ち止まって常識を疑い、深く考えること」。長期的に見てどっちがより優れているのかは、はっきり言って分かりません。

 ただ、この『優秀』が極端な両義性に阻まれているということ自体が、その意義を疑い続けるべきだということを意味するのだと思います。


 そしてこの文脈ではもはや、『優秀』とは、画一的でないことなのではないかとすら、思えるのです。





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